2011年12月27日火曜日

わが家元が観世寿夫賞を受賞


私が稽古をしている笛の流派の家元・藤田六郎兵衛先生(能楽笛方藤田流)が
第三十回観世寿夫記念法政大学能楽賞を受賞された。
この賞は能楽界では一番権威がある賞とのことで、
私は家元とは面識は無いがうれしいことだ。
わが師匠(家元の愛弟子・藤田流職分)もさぞお喜びだろう。

私も縁あってこの方をトップとする流派に趣味として弟子入りしている。
新春からは新しい曲(楽)の稽古が始まる。
気持ちを新たに、また頑張っていこう。

2011年12月18日日曜日

加齢による体力の低下を実感

ランニングを趣味として早30年近く(中学の部活動から数えて)。
途中、10年以上のブランクはあるから実質15~6年くらいか。
若い頃はただ漠然と思っていた体の衰えについて、
最近具体的に感じることが増えてきた。
それについて少し書こうと思う。
年齢を重ねるごとにパフォーマンスが低下する。
これは若い頃から分かっていたことだが、
ではどういう原因でどうなるのかという具体的なところまではよく分からなかった。
歳を取るからパフォーマンスが低下する・・・
個人差はあると思うが、
私が今感じているポイントは下記の5つだ。

①疲労や怪我の回復が遅くなる
②怪我をしやすくなる
③練習の効果が出にくく、かつ練習効果がすぐ抜けてしまう
④体の柔軟性の低下
⑤イメージ通りに体が動かなくなる


①疲れが抜けにくくなったし、怪我してもなかなか回復しない(と思う)ようになった。
これは徐々にこうなっていったのであって、
ある年齢で急にこうなったわけではない。
だから、ある年齢になって「そう言えば」と気付く感じだ。
日常生活においても疲れが抜けにくくなっているから
現役時代のようなハードな練習にはもはや耐えられないだろう。

②怪我をしやすい。
これは④や⑤とも関連する。
柔軟性が低下しているから今までは上手く回避できた怪我が
回避できなくなっていたり、
関節の可動範囲が狭くなっていたり、
軟骨が減少していたりという原因もあるように思う(幸い、私は軟骨の減少はあまりない)。
思ったような動きができないから
昔のイメージで無理して怪我をしやすいという部分もあると思う。
若い頃は成長期なのでどちらかと言うと骨や関節系の怪我が多かったが、
今は筋肉系の怪我が多いように思う。

③練習の効果が出にくい。
そして、蓄積した練習効果もちょっと練習しないとすぐ落ちる。
若い頃は休んだ分をすぐ取り戻せたが(と言ってもその当時でさえ1日休むと1週間分戻る、と言われていたが)、
最近は若い頃のようにはいかなくなった。
ただ、若い頃にはあまり完全ではなかった調整力(コンディショニング能力)をマスターできているので、今はそれで何とか乗り切っている。

④私は元々体が硬いが、最近はそれに輪をかけて硬くなっている。
関節だけでなく筋肉も。
体が硬いことで得することは全くないので
最近通っているスポーツ医・科学研究所のトレーナーの指示通りにストレッチ・エクササイズを行っている。
しかし、中々柔らかくなってこない。

⑤自分で思ったような動きができない。
これは、昔は跳びこえられた柵を飛び越えることができない、
昔走っていたスピードで走れない、
というようなことだけではない。
ジョックしていても知らないうちに硬い動きになっていたり、
イメージしたフォームで走ることができなくなっていたり、というようなことだ。
これは若い頃からあったことで、人から指摘されて気付くことも多いが、
歳をとってくると指摘されてもなかなか直せない。

プロのスポーツ選手でも老化によるパフォーマンスの低下と戦う。
この低下を最小限に抑えるために、
日常生活のすべてを見直していると聞く。
私はプロではないけれど、
パフォーマンスの低下はできるだけ抑えたい。
今のところ通常のトレーニング以外にはストレッチを行っているだけだが、
食生活も見直さなければと思う。

最近はあまり利用していないが
あいち健康の森のトレーニングルームを活用するのもいい。
それは、ここを利用するには「簡易健康診断」というものを受けねばならないからだ。
費用は確か400円で、これが結構いい。
内容は日常の食生活についての問診と体力測定(踏み台昇降運動・腹筋・前屈)。
診断の結果は簡易ではあるけれど、
運動と食生活についての現状とそれに対処するための方針などが示される。
体力測定もあるので、
ジムでどの程度負荷をかけてトレーニングすればよいかの方向も示される。
これを活用しない手はない。
私は少し前に簡易健康診断の有効期限が切れて健康の森のジムが使えなくなっているから
丁度いい機会だ(簡易健康診断は1年ごとに受診しなければならない規定になっている)。
私ももう若くないから、体について今まで以上に考えていかねばと思う。

2011年12月12日月曜日

お伊勢さんマラソンに出場(2011年)

お伊勢さんマラソンに出場した。
昨年に続いて2度目だ。
今年は夏の終わりに腰の左側を痛め、
その影響かどうかはわからないが右足の付け根やら左足の膝やら背中やらが少々痛い。
一応医者には大丈夫だと言われて
指示されたエクササイズやストレッチなどのメニューをこなしてはいるものの、
痛みがあるために気になってそれほど走れない(練習時間も余り取れないし)。
ということで、
昨年より更に走り込み不足での出場となった。

この大会は私が普段出場している試合と比較するとレベルがそれほど高くなく、
コースはフラットで走りやすいため気に入っている大会だ。
それに、いろんな企業や店のブースが多数出て、サンプリング品がたくさん貰える。
参加賞も盛りだくさんだし、飲食物の売店も出る。
競技場は内宮に近いから、帰りにおはらい町などにも立ち寄ることが可能だし。
大会に出場しない人も楽しめる工夫があってとてもよいと思う。
が、今年から中日三重ロードレースと共催になった影響で出場者が増え、
昨年までとは違って走りにくい大会になってしまったのが残念だ。

私は走り込み不足なので走るための足がまだできていない。
当然スタミナも無いからいつも5kmの部に出場している。
去年は走りやすくてよかったので今年も・・・と考えていたところ、
なんと5kmの部には中学生が大挙して出場することが判明(それもスタート地点に行ってから分かった)。
私はなぜかシード選手に選ばれていた(申告タイム19分)ので前の方からスタートできるはずだったのだが、
スタート前に待機しているときに後ろにいたシードではない中学生が次々と私の前に入り込み、
結局シードでありながら中学生らの後ろからスタートすることとなった。
スタート前に役員が「押したり横入りしたりしないように」と注意したが
奴らは全く聞いていない。
走っている最中に横から押すし、
ちょろちょろとコースを変えるから足を引っ掛けていくし。
競技場を出るまでに2回も足を引っ掛けられて転びそうになった。
人数が多かったからキロ表示の看板も見えにくかったのも残念。
来年からは中学生とそれ以外で出発時間を変えて欲しいものだ。
ということで、
今年はがっかり感がやや強かったがそれなりに楽しめた。
練習していないのに20分16秒。
月30キロ未満しか走っていなくてもこれくらいは走れる、ということか。
練習していない証拠なのか腿の筋肉痛がスゴイ。
普通はランナーが5kmのレースに出て筋肉痛になることなんてあり得ないから
恥ずかしくて大っぴらには言えないことだ。
そして、今回は右かかとのマメがつぶれて血だらけになっていた。
靴を脱いだらビックリ。
踵が真っ赤だった。
靴にも染みている。
私は元々マメができやすいがなんてことだ!
帰ったら速効洗わなきゃ、という状態だった。

来年は12月第1日曜日に開催だとのこと。
どうして毎年開催時期が変わるのか分からないが、
来年もぜひ出場したいと思う。
来年こそは19分台だ。

2011年12月3日土曜日

「狂言でござる」を観てきた

名古屋市博物館で開催中の「狂言でござる」を観てきた。
これは、名古屋で結成された狂言共同社が所有する能装束や面などを多数展示する
初めての企画展だ。
狂言の装束等がこれほど名古屋で受け継がれていることはあまり知られておらず、
某能楽師によると(東京や京都にも質・量ともに負けていない)そうだ。
奇跡的に空襲の被害を受けなかったことも大きいという。

名古屋市博物館のHPの記述によると、
「名古屋は東京や京都と並び、国内でも有数の狂言が盛んな地域です。
そのはじまりは、江戸時代までさかのぼります。
尾張藩では初代藩主である徳川義直の代から能楽の充実がはかられます。
大蔵流(おおくらりゅう)・鷺流(さぎりゅう)という二つの大きな狂言の流派がある中で、
群小諸派の一人であった山脇元宜(もとよし)が尾張藩に召し抱えられ、
名古屋の狂言の礎が築かれました。
山脇元宜が樹立した流派は、宗家(そうけ)の山脇という名にちなんで、
山脇流と呼ばれていました。
尾張藩の庇護(ひご)のもと江戸時代を通じて、山脇流は流儀の充実をはかり、
主要な流派の地位を得て、明治以降は和泉流という名称が定着します。
山脇流の狂言師は時には尾張藩から装束などを拝領することもあり、
逆に面を献上することもあったと伝えられます。
拝領品を含む所蔵品は、明治維新や戦災といった苦難の時を越えて名古屋で伝えられています。
明治維新を迎えると、和泉流宗家(そうけ)の東京への移住などによって名古屋の狂言は存続の危機におちいります。
そのような中で、明治24年(1891)に和泉流門下の弟子であった旧家や商家の主人たちが、
名古屋の狂言を絶やさないようにと「狂言共同社」を結成しました。
弁護士で第一期市会議員も勤めた角淵宣(つのぶちせん)、仏具商の井上菊次郎、酒造業の河村鍵三郎、
旗屋の伊勢門水(いせもんすい)などなど。
このうち伊勢門水は多くの狂言画も遺した名古屋を代表する風流人でもあります。
彼らは専業の狂言師ではありませんでしたが、芸の水準は非常に高いものがあり、
芸の伝承にはげむとともに宗家が手放した装束・面・台本などを買い戻して共同で管理しました。
結社的に集まった人々が物心両面から宗家伝来の狂言を伝える姿は、
他地域にはみられない名古屋独特のあり方といえます。」
とある。

私も能や狂言には興味があるし、
能楽師のところへ入門して能管を稽古しているということもあって
待望の企画展だった。
最近はどんな展覧会に行っても図録は買わないけれど、今回は購入。
名古屋の能・狂言について詳しく書かれた書籍はそれほど多いわけではないから
この図録の記述も貴重な文献だ。

能・狂言は今は東京と関西(京都・大阪)だけが非常に盛んで、
それ以外の地域では細々という感じがしている(私がそう思っているだけなのか?)。
特に名古屋はかつては「芸どころ」と言われた割には能楽・狂言のファンはそれほど多いとは言えない。
学生能も下火になってきているし。
ファンの平均年齢も上がる一方だし・・・。
この企画展で少しでも興味を持つ人が増えてくれればと思う。

2011年11月27日日曜日

元上司との永遠の別れ

私の元上司が亡くなった。
63歳という若さだ。
ガンだった。
私は今まで8人の上司の下で働いてきたが、
その中でも最もお世話になり、
人生の上で大きな影響を受けた方だった。
仕事の仕方とかスキルとかいう意味ではなくて、
志とか生きざまとか、そう言った部分でだ。
この人がいなければ今の私は無いと言えるほどの人物との別れがこれほど早く訪れるとは・・・。
いつかはこの日が来るとは思っていたが・・・非常に悲しいことだ。

この人は、偶然同じ大学出身だった。
私が入社当時、社内で同じ大学出身の人は2名しかおらず、
私が3人目だったらしい。
しかし、私は結構アウトローだったのでOB訪問は一切せず、
OBがいるかどうかも調べないまま就職活動していたのでその上司の存在を知らなかった。
内定をいただいた各社の中からその会社を選び、
内定式へ行ったときのこと、
その人(当時は本社の人事課長だった)から呼び出された。
「おい、お前ウチの会社に大学のOBがいること知ってるか?」
と聞かれた。
その頃には2名いることは知っていたので
「お二人いらっしゃると聞いています」と回答したところ、
「俺だー!よろしくな!」と肩を組まれた。
それが最初の出会い。

この人は「声がでかい、腹がでかい、態度がでかい」と三拍子揃った人で、
酒が飲めない体質なのにこの男気あふれる業界で代理店営業で出世した有名人。
入社2年目に私の上司へと転勤してきた。
支店の代理店営業と本社人事部の間で転勤を繰り返し、
今度は支店の管理部門の課長(副支店長兼任)として転勤となったのだ。
そこで、この人の奥深さを知る。
営業本部出身の人なので、管理本部出身の人とはいろんな思考パターンが違う。
そしてフットワークも。

ホントかウソか分からない武勇伝のような話も多い。
その中の一つ、
中卒で院卒の大人と張り合ったという話。
この人は子どもの頃からかなり強気で自信家だったそうだ。
で、中卒でも大人に負けないと思いこみ、
高校へは進学せずに今の三菱化学の前進の会社(三菱化成?)に入社。
そこで院卒の同期と張り合っていたらしい。
しかし、報告書の誤字の多さを指摘されて自分の至らなさを自覚し、
翌年に高校入学~大学進学で今の会社へ入ったとのこと(確かに他の同期より1年年上だった)。

あるとき、私の転勤話がそこはかとなく漂ってきた。
転勤先は本社経理部。
本社(東京)へ行くのは嫌だし(経理部に転勤したら祭はできない)、
この年齢で経理部に転勤すると次は海外の子会社に転勤という可能性が大きくなる。
それはもっと嫌だなあとうだうだしていたところ、
この上司が上申書を書けと言う。
で、書いたものを提出したところ「話にならん!」と一蹴された。
その後、上司が「黙ってこれに判を押せ!」と言って書類を出した。
それは本来は私が書くべき上申書で、
私の生い立ちや地元の風習など知るはずもないことが結構正確に書かれており
その文書の中身を読んでビックリした。
これが本社へ送られ、写しが経理部長の引き継ぎファイルへ保存されることとなった。
後日、会計監査の折りなどに経理部長から
「これ、ちゃんと持ってるからな」と見せられたことも。
私が書いたものじゃないので冷や汗が出た。

私は入社以来、この会社の業界は自分には合わないとずっと感じていた。
男気が強すぎるドスの利いた業界で、
取引先や協力業者にも当然そういったメンバーが揃っていたからだ。
だから将来を考えて転職を計画していたところ、
この上司に感づかれた。
もっと身近にいる同僚の誰もが気付かなかったのに、だ。
ある日、「明日の夜、予定をあけておけ」と指示があった。
ある店の座敷に呼ばれたのだ。
そこで、「お前の様子がおかしいから
何か変なことを考えているんじゃないかと思って呼んだ」と言われた。
その時は実は転職先の二次試験も合格していて
後は内定承諾書を出すか断るかをするだけになっていた。
何という見る目の鋭さなんだろうとただただ驚くしかなかった。
このとき、二次試験に合格した段階でも転職するかどうか迷っていたのだが、
この上司の存在はその迷う大きな理由でもあった(転職先の面接官の感じの悪さもネックになっていた)。
迷いに迷った挙句、
転職を止めてこの会社にとどまることにした。
ただ、やっぱりこの業界は肌に合わないという思いが強くなり
数年後に違うところへ転職したから、
最初のチャンスに転職していたらもっといい人生があったのかも、とときどき思う。
転職をしたときはその上司はすでに本社へ栄転していたから
電話で報告をした。
上司は、引き留めて悪いことをした、という趣旨の話をした。
仕事の中身は自分により合っていると思うが、転職先の雇用条件の方が悪かったからだ。

その後は合うこともあまりなく、
年賀状のやりとりと同期から様子を知らせてもらう程度だった
それが、2年ほど前にガンが発見された。
余命数カ月と宣告されていたが、
保健が効かない治療をしたところ一時的に回復、
去年の11月には少し調子がよいとのことで仕事にも復帰していた(その時に、
一緒にご飯を食べた)。
それから1年後にこの日が来ようとは。
この人に恥じることのない人生にしたいと思う。

2011年11月23日水曜日

豊橋へGO! ~赤岩寺 & 豊橋美術博物館~

豊橋市の東部にある赤岩寺の秘仏がこの時期だけ公開されるので拝観してきた。
このお寺は○○に開基という古い真言宗のお寺だ。
周辺には東海自然歩道も通っており
背後に小高い丘が連なっている自然豊かな場所にある。

立派な山門を通り過ぎ、中門をはいると正面に本堂が見える。
その他堂宇がいくつかあるが、
肝心の秘仏は向かって左手の一番奥まった場所にある。
鉄筋コンクリート造りの宝物庫というような建物に収められていた。

そこで番をしていた檀家の方によると、
かつては宝物庫は無くて御堂の中に安置されていたそうだ。
そこでは、護摩や線香を焚くので
その煤などで黒くなっているとのことだった。
ゆったり拝観したあと、周辺を散策。
東海自然歩道には結構惹かれるものがあった。
少しだけ歩いてみたが、いいトレッキングコースだと思う。
いつか歩いてみたいところだ。

そして、せっかく豊橋まで来たから
吉田城のところにある豊橋美術博物館で開催している渡辺小華展を観に行った。
渡辺小華は、田原藩家老で「鷹見泉石像」を描いたことでも知られる渡辺崋山の次男だ。
兄が夭折したために渡辺家を継いだという人物で、
若い頃から椿椿山などに弟子入りして絵の修行をしたという。
その企画展だ。
昔は日本画より洋画の方が好きだったのだが、
20歳ごろから日本画も結構好きになり、
今では日本画の方が好きだと言えるくらいだ。
ただ、素人なので細かい技法とか歴史とかはよくわかっていない。
好き・嫌いで判断するレベルだ。
でもいい絵を観てよい気分になることができればいいと思っている。

夕方に少しだけ豊橋の友人と会って話をした。
この友人は私とは違った分野に結構詳しくて
興味深い話が多い。
今回も面白い話を聞くことができた。

しかし・・・同じ県内とは言っても豊橋は遠い。
ウチから片道1時間半ちかく掛かる。
蒲郡を通り抜けるのに時間がかかる。
高速を使うとかなり遠回りだし。
でも、豊橋にはまだまだ行ってみたいところがあるので
機会を見つけて訪問したい。

2011年11月14日月曜日

愛知県図書館 探検ツアーに参加

愛知県図書館探検ツアーに行ってきた。
これは一般市民向け(中学生以上)に開催されたもので、
数年前から年に何日か開催されているものだ。
今までずっと行きたいと思っていたのだが、
当日先着順に受け付けするというのが面倒であきらめていた。
しかし、今回はメールでも受け付けるとあったので応募し、
めでたく当選したのだ(先着順に受け付けだった)。

集合時間は13時半。
県図書のAVホールで全体説明があり、
その後職員に引率されて普段は入ることのできない館内のバックヤードを順番に見学していく。
今回の参加者は8名。
平均年齢は多分私の年齢と同じくらいかやや上か。

見学は障害者閲覧室から。
普段は障害者以外は利用できないという部屋だ。
ここで、点字資料やデイジー資料の説明を受ける。
障害者向けの資料は一般向けに販売されているものだけではとても追いつかないので
この図書館でも作成しているとか。

その後、1階のカウンターから順に。
書庫の資料を請求すると、その申請書がどのように流れていくかのしくみを見せてもらい、
地下の書庫へ下りる。
書庫は地下1階と2階だが、そこは4層に分かれていた。
書庫の書架は主に電動の集密書庫が置かれていて、
その動かし方も見せてもらう。
最新式のものは書架の動作が液晶表示をされる。

説明を聞いてびっくりしたことがある。
それは、県図書は基本的に除籍(廃棄)をしない図書館だということだ。
一旦買った本・雑誌は全部取っておく。
壊れて修理できなくなったもの以外は全部保管されているそうだ。
そんなことしていたら置く場所が無くなってしまうと思ったが、
今のところ収容スペースには37万冊も余裕がある計算だ。
地下の書庫をよく見ると、フロアに空きスペースが多数あり、
まだまだ大丈夫みたいだ。
将来はそこにも集密書架を入れるのだろう。
他の公共図書館ではこうはいかないので、
定期的に除籍し、
いらない本を利用者に頒布するイベントを行っていると思う。

で、その後貴重書庫へ。
県図書の貴重書は和本が多く、あと古い地図も結構ある。
貴重書は大変大事なものなので、
耐火金庫みたいな分厚い扉が付いた部屋に厳重に保管されていた。
とびらの奥には金網のついた引き戸があり、
それを開けて中へ入る。
劣化防止とカビの発生を防ぐため、
室内は24時間空調で管理されている(気温18度・湿度50%)。
床・壁・天井・書架は全部木でできていた(多分杉の木だと思う)。
貴重書にはいろんなものがあるが、
中でも江戸時代の大きな地図は体育館で広げないと見えないようなサイズのものもあるそうで、
そういったものは滅多に開かれることはない(請求しても利用許可が下りないだろう)。
大きくないサイズのものでも劣化の激しいものも閲覧許可は下りないとか(県図書で一番古い図書もかなりボロボロだから閲覧不可:本を開くとそこから分解しそう)。
ただ、閲覧できないものは電子化されており、
インターネット経由で電子アーカイブからパソコンで閲覧可能だ。

他の図書館の資料を取り寄せして利用者に提供するサービス(ILL)は
今ではあらゆる図書館が実施しているが、
県内の図書館間の転送便を一手に引き受けているのが県図書とは知らなかった。
それは、県内各図書館との間に定期便があるかららしい。
例えば、
半田市立図書館の利用者が豊橋市中央図書館の資料を取り寄せする場合、
その本は豊橋から県図書へ行き、
そこから半田へ来るという流れだ。
また、岐阜・三重・富山・石川の各県立図書館とも転送便のやり取りがあるそうだ。
で、例えば名張の図書館から半田の図書館の資料の希望があったときは、
半田から県図書へ行き、そこから三重県立図書館へ行ってから名張へ転送されるという経路になるらしい。
本の大変な流れを知って驚いた。

新刊図書を購入するセクションも見学した。
県図書は県内の公共図書館の機能を補完する位置づけの図書館であるため、
どこの市町村立図書館に普通に購入されるような本はどちらかというと購入せず、
少し学術的な図書や市町村立図書館が購入しなさそうな本を購入していく傾向もあるらしい。
限られた予算を有効に使って行くために現在の所蔵資料との兼ね合いも考えて研究しているとのこと。

最後に図書の修理スペースへ。
本の修理は基本的には保存の利く材料を使う。
糊は生麩か製本用の糊。
セロテープは絶対使わない。
上を接続するときは和紙を使う。
本を破った人が勝手にセロテープで補修していることがときどきあるが、
セロテープは年月が経つと接着部分が変色して紙にこびり付いてセロファンと分離するので
そうなる前に全部はがして修理し直す。
コピー機を使う人が増えてから修理本の量が大幅に増えたとか(ページをグッと開くので
本がバラバラになる)。
取れたページがある本は本自体をばらして各ページを縫い込みして直すそうだ。
修理本の棚に目をやると、
何と私が卒論を書くときに参考資料とした本が並んでいた!
それは結局は自分で購入したけど最初はここで借りた。
だから約20年ぶりの対面。
早く修理されるといいなあと思った。

2011年11月6日日曜日

映画「WAYA!(わや)」を観た


名古屋・円頓寺商店街を舞台にした映画「WAYA!(わや)」を観てきた。
円頓寺は元々縁もゆかりも無いが、今ではこの町のファンの一人だ。
笛の稽古へ行くときにいつも通る道すじにあり、
その昔ながらの商店街がとても気に入ったからだ。
一般的には名古屋の昔ながらの商店街は大須だというイメージがあるが、
大須は今や昔懐かしい店は少なくなり、
若い子向けの服屋と食べ物屋ばかりという状態。
だから本当の昭和のレトロな雰囲気を残しているのは円頓寺だ。
それに、名古屋駅の近くにこんな下町があるというのも驚きだ。
バブル期にうまく地上げから逃れてきたのだろう。

今回の映画はこの商店街を中心に話が展開していく。
確か今年の1月にエキストラ募集してたから
その頃撮影したのだと思う。
エンドロールに大量の名前が出てきたから
かなりのエキストラの応募があったことがわかった。
どのカットも知っている景色ばかりで、
円頓寺を知っている人はそういった部分も楽しめる。
それに、ここは普段は入れないところなのでは?
というところでもロケが行われているのを発見したり。
しかし、アーケードの屋根をあんなふうに歩けるとは知らなかったな~。

もちろんストーリーも感動の物語だから
円頓寺を全く知らない人でも楽しめる。
それに、これを機会に円頓寺を知る人が増え、
ロケ地巡りなどに来る人も多くなるだろうなあと思う。
古い商店街で閉まっている店も結構あるが、
場所はイイし可能性を秘めていると思う。
この映画をきっかけに何か良い変化があれば、と思う。

一つ残念(でもないか?)だったのは、
ルー大柴が関西弁をしゃべるのに違和感があったこと。
役柄が関西出身で京都の大学に行っていたという設定だから仕方ないが、
てっきりルー語でも使うのではないかと勝手に思い込んでいたから
ちょっと意表を突かれた感じだ。
名古屋での上映は伏見ミリオン座で。
11月11日までの上映は確定しているが、延びる可能性あり。
詳しくはミリオン座のHPでチェック!

2011年10月31日月曜日

映画「グレン・グールド 天才ピアニストの愛と孤独」を観た


グレン・グールドのドキュメンタリー映画を観てきた。
グールドの弾くピアノは好きだけれど、
その生涯についてはあまり知らない。
だから、この映画を観て非常に多くのことを知った。
名古屋のシネマテークで上映されていたので前売りチケットを買って観に行った。

グールドは20世紀を代表する大ピアニストだ。
アメリカの惑星探査計画の人工衛星「ボイジャー」に、
未知の生命体へのメッセージの一つとして、
グールドが弾いたバッハの平均律の一部が録音されたレコードが搭載されたことは
あまり知られていないかもしれない。
地球代表として搭載されたのだから、そういうレベルの人ということだ。

この映画を観て、
グールドの非常に人間くさいところがよくわかった。
人間嫌いで友人を多く作らなかったと言われていたが、
その数少ない友人が登場し、
グールドの様子をリアルに語った。
友人でないと語れないことばかりだ。
独身で過ごしたということは知っていたが、
好きだった人や同棲していた人など3名が証言者として登場し、
生の声でグールドを語った。
グールドのノンレガード奏法はトロント音楽院の教授の指導により
獲得した技術だということもわかった。
同じ教授について習ったという人も証言者として登場。
その人が弾くピアノもノンレガート奏法だった。
私はこの弾き方が好きなので、
とても心地よく耳に響く。

メジャーデビューしたのはバッハのゴールドベルク変奏曲だが、
レコード会社はバッハのインベンションとシンフォニアで
デビューさせようとしていたことも分かった。
これはヒドい。
いくらなんでも子どもの練習曲でデビューさせるなんて・・・2声と3声・・・
でも、このときはグールドが納得せずにゴールドベルクに決まったとか。
結局この演奏が世界中の人たちをビックリさせ、
その後バッハ弾きとしての演奏家人生を歩むことになる。

グールドが長く心の病に侵されていたことも分かった。
晩年(と言っても50歳だが)にゴールドベルグ変奏曲を再録音したときの映像があるが、
この年齢でこんなに老けているのは何故だと思っていたが、
実は心を病んでいたのだ。
しかし、それでもなおあの素晴らしい演奏をするとは・・・
やはり世界一のピアニストだったんだと改めて思った。

心の病気がなければこんなに早く亡くなることもなかったと思う(死因は脳溢血)。
彼の演奏はいつまでも残り、
一般的な解釈とはかなり異なった演奏として永遠に異彩を放ち続けるだろう。

2011年10月24日月曜日

日本ジュニア・ユース陸上競技選手権大会の審判をしました(2011)

今回初めて日本・ジュニアユース陸上競技選手権の審判を担当した。
全国大会だから見学からも多数の選手が来場するから少々緊張。

会場は名古屋の瑞穂公園陸上競技場だ。
ジュニアは20歳未満、ユースは高校1~2年生が対象。
これから日本代表として羽ばたいていく若手のための大会ということになる。
この大会は全国大会だから予め標準記録を突破している選手に出場権がある。

私の担当部署は・・・
それを書いて誰かに迷惑がかかるといけないから書かないでおこう。
私はB級審判なので一番下っ端だ。
経験も少ない。
分かっていないことや思い違いしていることもいろいろあるはずなので
実践経験を積んでひたすら勉強の毎日だ。
スキルアップするためにはルールブックを読み込む他に、
やはり実際に経験することが非常に有益だと思う。

大会期間中(特に土日)は1日の中での天候の変化が激しかった。
土曜日は朝とお昼過ぎにすさまじい集中豪雨があった。
日曜日も、今日はもう降らないだろうと思っていた頃にすさまじい雨が。
そのタイミングに競技中だった選手は実力を出せただろうか。
こちらとしては万全の態勢で試合に臨んで貰いたいところだが、
天候は何ともできないから悔しいところだ。

大きな大会だから競技場内のいろんな場所への入場制限が結構厳しい。
私たちは「競技役員」のIDを交付され、
それを常に身につけていなければならない。
出場選手は「アスリート」というID、監督・コーチは「コーチ」というID・・・。
私も「アスリート」のIDをつけられる身分になりたかったなあと思ったが、
私の実力ではとても無理だったな。

競技場内外の商標管理もかなり神経を使わねばならないところだ。
スポンサー企業への配慮からだ。
プログラムにもその規定について細かく指示がある。
選手などはそれを忠実に守り、
担当の審判はそれをチェックしないといけないから大変だ。

今回出場選手たちを見ていて改めて思ったこと。
私が現役時代は強豪校の選手はとても強そうで大きく見えた。
しかし、強豪校の選手らを見ているとかわいいと感じる。
体の大きな選手はいることはいるけれど、
それでも当時のような気持ちにはならない。
私も歳をとったということだなあ。

仕事の都合で土日の2日間だけの出席だったが、
幹部の審判などは木~日と4日間の仕事だった。
大きな大会ではずっと前から事前打合せなどが結構ある。
私は2日間だけでも結構疲れたのに4日間担当された方や
ずっと前から打合せに出席された幹部審判には本当に頭が下がる。
でも、我々が力を尽くしていれば選手のためになると思うと
またやろうと言う気持ちになるから不思議だ。
審判だけでなく、補助員をやってくれた多くの人達にも感謝だ。

2011年10月16日日曜日

C.P.E.Bachのヴュルテンべルグ・ソナタの楽譜を入手

 C.P.E.Bach(カール・フィリップ・エマニュエル・バッハ:ベルリンのバッハ)の
ヴュルテンベルグ・ソナタ(1~6番)の楽譜を入手した。
と言っても妻が欲しいと言っていたので私が探して取り寄せしたのだが。
輸入版の楽譜だけどマツイシ楽器店でも取り寄せできた。
私は第1番3楽章が好きだから、いつか弾けるようになりたい。
音数も少ないし何とかならないかと思っている(甘いかな)。

C.P.E.バッハはあの有名なJ.S.バッハ(ヨハン・セバスチャン・バッハ:大バッハ)の二男で、
バッハの息子の中では一番有名(だと思う)。
タワーレコードでも他の息子たちは「バッハファミリー」とひとくくりにされているのに、
C.P.E.バッハだけは単独で見出しがあった。
また、伏見のヤマハの店の楽譜コーナーでも、
C.P.Eバッハの見出しがあった。
だが、一般には知らない人が多いと思う。

C.P.Eバッハが生きた時代はまだ現在のピアノが無い時代で、
この曲も「クラヴィーア・ソナタ」となっている。
クラヴィコード用の曲として作曲したのだろう。
ただ、私はピアノで演奏した曲しか聴いたことがないから
クラヴィコードで弾くとどんな響きになるのだろうかとかなり興味を持っている。

しかし、この楽譜を探す課程で妙なことに気付いた。
私が購入したのは1,680円(アルフレート社:輸入版)だが、
同じ曲の楽譜なのにベーレンライター社の楽譜は5,250円もする(こちらも輸入版)。
聞くところによると、ベーレンライターの楽譜は全体的に高いとか。
同じ曲の楽譜が3倍もするとはなあ~。
ビックリだ。

2011年10月11日火曜日

知人が入門(能管 藤田流)

私が稽古に通っている能管の竹市先生のところへ知人が入門した。
仲間が増えることは嬉しい。

私は祭囃子→能楽というルートを通っているので
実は能楽のことはあまり詳しくない。
そもそも音を楽しむ派だから、能の舞など所作のことは全く分からない。
しかし知人は能楽愛好家でいろいろとかなり詳しい。
すでに大皮(大鼓)も某先生の下で稽古しているとか。
で、先月の私の稽古を見学し、そこで我が師匠に入門申込をして
今日が初めての稽古日だったのだ。

笛は東京の武蔵野楽器で購入したらしい(樹脂性の能管)。
ここは和楽器では有名な店で、とてもゴージャスな感じだとか。
彼は直接購入しに行ったそうだが、
素人が行くのははばかられる雰囲気だったと言っていた。

さて、稽古の最初は「お調べ」を習う。
これは、プロでも舞台へ出る直前に吹く曲で、
普段稽古するときもまず最初はお調べを吹くことになっている。
お調べは笛の調子をチェックするためにも使う曲で、
プロの世界でも
笛の能楽師がお調べを吹いているときに他の能楽師も自分の楽器の調子を見るために自分の楽器を打つ。

私はすぐ音が出たクチなので、
稽古初日からお調べを全て教わった。
しかし、彼は笛の経験が無かったらしく
お調べは途中まで習って終了時間となった。
音を出すのにかなり苦労していたからだ。

能管を吹いたことがある人は分かる(当たり前)が、
リコーダーのように息を吹き込めば音が出る仕組みにはなっていない。
相性もあると思うけれど中々音が出ない人がいる。
これが笛愛好者が増えない原因だと個人的に思っている(他の楽器はとりあえず打てば音は出る)。
そして、同じ指を押さえて高い音と低い音を出すというところも慣れが必要。
初心者には難しい部分だ。
それに、祭のお囃子は強弱をあまり付けないが
能楽囃子はかなり強弱をつける。
強い吹くところは思いっきり吹けと言われるが、
この点も難しい。
私は長距離選手なのにすぐ息が切れて疲れてしまう。
1回30分の稽古で結構ヘトヘトになる。
指先がしびれてくることもある。

彼もいずれこの苦しさを味わうだろう。
でも、やっぱり笛が好きだから続けられると思う。
稽古に通うことができるかぎり続けていきたいし、
笛の稽古してみたいという人がいたら迷わず我が師匠を勧めたい。

2011年10月3日月曜日

板東英二が中日の監督にならないかなぁ

元野球選手としてよりタレントとして有名だと思われる板東英二
現在71歳の彼が高校3年生のときに樹立した
甲子園1大会当たりの奪三振記録が未だに破られていないことは
我々の世代より若手にはあまり知られていない。
だから本人はテレビ等でかなり自慢げに話す。
中日ドラゴンズの落合監督が半ばクビとしてシーズン終了とともに監督を辞める報道がなされた前後に、
板東英二が中日ドラゴンズの監督をやりたがっているという噂が流れた。
しかし、板東は中日の選手ではあったがコーチやフロントは経験していない。
監督になった後に球団経営陣とも意見が合わずに対立しそうだし。
これがネックになって中日生え抜き選手とは言っても監督は無理だろう(「燃えよドラゴンズ」を最初に歌ったのは板東だが、これだけじゃあダメだよなぁ)。
ただ、自分の実績をあれだけ自慢するからには相当な記録を持っているのだろうと思って
少し調べてみた。

板東の野球人生で一番有名なのは、
夏の甲子園大会で延長18回引き分け再試合となった試合だろう。
実は、高校野球で延長18回でも勝敗がつかない場合に引き分け再試合という規定の適用第1号がこの試合で、
この規定ができるきっかけを作ったのも板東英二だったことが判明した。

板東が高校3年生の春季四国大会(昭和33年)、
徳島商業高校のエースとして出場した板東は、
準決勝と決勝の2試合が延長戦になったために合計41イニングも投げた(通常の1試合は9イニング)。
この試合は地方大会ではあるが全国的に報道され、
成長期の高校生が2日で4.5試合分も投げるのは非常に問題であると高野連が問題視した。
当時はプロもアマも先発ピッチャーが完投するのが当たり前で、
板東も全試合に先発完投していた(相手投手も先発完投)。
そこで生まれた規定が、
延長18回で勝負がつかないときは翌日再試合、だ(現在の規定は「延長15回」に短縮されている)。
そして、その年の夏の甲子園大会準々決勝の魚津高校(富山)戦において
またもや延長戦になって18回を終わっても勝負がつかずに引き分け再試合となったのだ。

この試合のスコアを見て驚くべきことが分かった。
板東はこの試合で合計25個の三振を奪っているが、
1~9回までより10~18回の方が奪三振数が多いのだ。
ピッチャーは投球回数が増えるほど疲労のために球のスピードもキレも無くなってくる。
当然バッターには打ちやすい球が増えるのだが、
板東の場合は試合後半になっても疲労によるパフォーマンスの低下が少なかったようだ。
しかも、この試合は第4試合で途中からナイターとなった。
板東は昔も今も人に注目されて実力を出すタイプだから、
ナイターになって余計に力が湧いてきたものと思われる。

板東は翌日の再試合(9奪三振)、準決勝(14奪三振)と勝利したが、
実質7試合目の決勝では疲労困憊のために
全く球が走らず0対7で負けた(3奪三振)。
準決勝までがわずか3失点だったことから考えると、
さすがの板東も相当消耗していたのだろう。

今のようにビデオでの投球分析が無い時代の記録で、
今よりピッチャー有利だったという見方もある。
しかし、トレーナーも酸素による疲労回復術などもなく、
真夏なのにエアコンもない。
準々決勝4試合が1日で消化される時代の記録だ。
新幹線も無いから、甲子園までの道のりはかなり大変だっただろう。
戦後10年少々で世の中全体がまだ貧しかった時代の記録だ。
栄養状態が今より格段に劣っていたのにこれだけのパフォーマンスができたのは
素晴らしい素質と
ハードな練習に耐えられた頑強な体と心があったからだと思う。

板東が在籍していた当時の徳商野球部は練習が厳しいことで有名で、
台風来襲で学校が休みになっても練習をやったとか、
毎日夜11時まで練習だったとか
今では考えられないほどしごかれていたらしい。
その上、
試合の前にはウォーミングアップとして300球も投げ込んでから登板していたというから
どこにそんなスタミナがあったのかと恐ろしくなるくらいだ。
今のような体調管理や調整法もないスパルタ至上主義の恐ろしい話だ。

板東が偉そうに自慢話で言うから聞く方もそのような聞き方しかしないが、
よくよく調べてみたら凄い記録だったのでここに書くことにした。
甲子園を沸かせた大投手は数多い。
江川・桑田・松坂・斎藤(ハンカチ王子)・・・
誰もが無し得なかった記録だ。
一応その年の板東の甲子園での記録一覧を↓
2回戦・・・秋田商(秋田)17奪三振・完封
3回戦・・・八女(福岡)15奪三振・1失点
準々決勝・・魚津(富山)25奪三振・0対0 延長18回引分け再試合
再試合・・・魚津(富山)9奪三振・1失点
準決勝・・・作新学院(栃木)14奪三振・1失点
決勝・・・柳井(山口)3奪三振・失点7

合計83奪三振。

ちなみに、本当かどうかは分からないが
中学時代は61勝無敗だったとか(「野球の島に四商ありて」(結踏 一朗著)の記述による)。


あと、板東は高校卒業後に中日ドラゴンズに入団しているが、
板東に触手を伸ばした巨人軍の取締役が板東の態度に腹を立てて入団交渉を一歩的に打ち切ったために中日に入ることとなったと「巨人軍 陰のベストナイン」(上前淳一郎著)に記述がある。

2011年9月27日火曜日

(財)スポーツ医・科学研究所で初受診

8月下旬に100㎏超の重い物2つを変な態勢で移動させたために腰を痛めてしまった。
私は生まれてこのかた腰が痛くなったことが無い。
だから安易に考えて自然に治るかと思っていたが、
中々痛みが取れないので医者に行くことにした。

普段は地元の整形外科へ行くところを
ある人の勧めによってスポーツ・医科学研究所へ行くことにした。
ここは財団法人が運営するスポーツ専門の整形外科で、
噂によると中日ドラゴンズの選手も来ているとか。
誰かと会えるのかな?などとミーハー的なことを考えたり・・・。

それはさておき、
私も日常的にランニングをしており、
今のままではろくに走れない。
11月に試合があるし、今トレーニングできないと出場も危うい。
ということで、ちょっと敷居が高い感じもするが行ってみることにした。

この施設は知多郡阿久比町の役場裏の丘の上、
全天候の陸上競技トラックや室内練習場、トレーニング室などスポーツ施設が揃っている「阿久比スポーツ村」の中にある。
ホームページには次の説明文が掲載されている。

「財団法人スポーツ医・科学研究所は、スポーツに関する医・科学研究活動を核として、
医学に基づく診療部門、科学に基づく技術や体力等のスポーツ診断部門が研究の成果を実践する対外的な窓口として
独立した形で存在します。
さらにコーチや選手などを対象とした各種の研修会、
スポーツ医・科学情報を提供する研修部門がより積極的な形で一般社会と接します。
ここでの研究が最善の形で社会に貢献できるよう、各部門が相互に関連し合ってその機能を営んでいるのです。
診療・診断の窓口は、スポーツ整形外科、リハビリテーション等の理学療法科、
内科系の健康管理科といったスポーツ外来や、スポーツ・ドックを主な接点とするスポーツプロモーションからなり、
必要により総合的に対応するためのシステムが組まれています。」


完全予約制なので予め電話で予約をして、
所定の時間に行って受診する。
当日は健康保険証の他に運動ができる服装と体育館シューズを持参するように言われる。
行ってみると、患者は全てアスリートだ(と感じた)。
中学生から大人まで、
趣味レベルから本物のアスリートまで幅広い。
中高生は運動部に所属しているようだ。
私もかつてはアスリートだったが今ではすっかり趣味レベル。
でも、まあいいか。

最初に医師による問診・触診があってレントゲン撮影を行う。
レントゲン技師に、
何故だかマラソンのトレーニング方法についていろいろ聞かれる。
その人は減量を兼ねてジムに通っているが、
つい筋力トレーニングの機器をたくさん使いたくなるらしい。
長距離を走る場合は上半身に筋肉が付き過ぎるのは良くないので
筋力トレーニングはほどほどにしないといけない。
でも、ジムに行くといろんな機器が置いてあるからつい使いたくなるんだよねーというような話をして
レントゲンを4枚撮影(正面と側面、いろんな態勢で)。
その画像の結果、痛みの原因は骨ではなく筋らしいことが判明。
ただ、腰椎の骨がやや変形している箇所が一部あり。
これは姿勢が悪いために長年の積み重ねで変形した模様。
姿勢が悪い人によくあることらしい。
ただ、背骨全体の形は全く問題なく、
ヘルニアの原因になる腰椎の軟骨は全く問題なし。
ということで、筋肉の炎症を抑える薬を処方してもらい、
あとはリハビリ、エクササイズを行って腰痛の再発しにくい体を作ることになった。

私は生まれつき体が硬い。
それもかなり極め付きの硬さだ。
生まれた時、股関節が脱臼していると勘違いされたほど硬い体なのだ。
若い頃は多少は柔らかかったが、
年齢とともに硬さは増して今ではかなり硬い。
医師の触診のときも理学療法士のチェックのときも「これはこれは・・・」と言われたほど硬かった。
体が硬いということは、その分怪我をしやすいので好ましいことではない。
スポーツをする上でパフォーマンスも低下する。
腰の痛みは体が硬いことも一因になるということで、
まずはストレッチを中心に行うこととなった。
理学的な治療は電気マッサージを1種類のみ。

それと、ランニングフォームも見てくれた。
今は腰がイマイチの状態ということもあるが、
フォームがあまり良くないという見立てだった。
どうやら腰に負担がかかるようなやや反り返ったフォームになっているらしい。
これは腰の痛みが取れてから改善できるよう指導してくれるようだ。
普通の整形外科ではこういうことはないから、
これはイイじゃないか!

リハビリルームはほとんどアスレチックジムと同じ状態で、
いろんなトレーニング機器が置いてある。
それに体育館もあるし。
理学療法士はスポーツトレーナーでもあるし。
医師もスポーツ専門医だ。
やっぱりアスリート向けの施設だと思う(スポーツをしない人は受診してはいけない雰囲気)。
結構混んでるから人気があるのだろう。
気になっていた料金も普通だったし、
これならもっと早くこればよかったなあと少し反省した。
次回の受診が楽しみになってきた。

2011年9月18日日曜日

ペン習字の通信講座を始めました(パイロットペン習字)

ペン習字を始めた。
自分の字のあまりの下手さにずっと困っていたので、
一念発起通信講座を受講することにした。
ペン習字の通信講座にもいろいろあるが、
私は文具メーカーのパイロットが行っているペン習字を受講することとした。
自分で本を買ってきて練習するという手も考えたが、
これだと多分三日坊主で終わると思って通信講座を選んだ。

パイロットペン習字のホームページへのリンク

私がパイロットを選んだのは受講料が安いからだ。
それと、一つの字体を習うのではなく、
4つの字体の系統のうち自分の好みの字体の系統を習うというスタイルも気に入った。
ということで、早速申込して教材を受け取った。
文具メーカーの通信講座だから、
もちろんそのメーカーの万年筆(と言っても一番安いもの)がおまけで付いてくる。
私はそれで練習を開始した。
万年筆だとなんだか字が上手に書ける気がする。
見本を見ながら書いているからかも知れないが、
やっぱりゆっくりと丁寧に書くという意識を持っているのが違うのだろう。

パイロットの講座は毎月1回清書したものを提出する。
お題は毎月2つ出て、一つは見本付き、
もう一つは見本無しの級位検定用のものだ。
これを毎月締切までに送ると先生が添削して返送してくれる。
毎月1回だからそれほど苦痛になることもなく、
先生が添削してくれるから励みにもなる。

あと、私はペンの持ち方に変な癖がついているので、
この際これも直してしまおうとたくらんでいる。
ただ、かなり長い年月を経て今の変な持ち方になっているから、
直すのは一筋縄ではいかないだろう。
まあ、何とかなるかな。
ペン習字を考えている方、パイロットで受講してはどうだろうか。

2011年9月11日日曜日

Concerto vivace Ⅳ「Requiem」 安息 レクイエム チャリティーコンサート


今日は愛知県芸術劇場コンサートホールで行われたチャリティーコンサートへ行ってきた。
演目はモーツァルトとS.ドブロゴスの「レクイエム」だ。
私はモーツァルト好きで、中でもレクイエムは好きな曲なのでとても楽しみにしていた。
今回はジュスマイアー版での演奏だという。
モーツァルトのレクイエムは未完だった(作曲中にモーツァルトが死去したため)。
その後を引き継いで全曲を完成させた人が何人かいるため、
誰の版で演奏するかが大抵告知される。
何も書かれていないときはジュスマイアー版ということになっている。

この公演は素人の合唱団3つ(混声合唱団 スコラ カントールム ナゴヤ、
混声合唱団 VoxMEA、名古屋大学グリーンハーモニー 有志)と
楽団1つ(ディ・ムジカンテン室内管弦楽団)の混成部隊で開催された。
指揮者の中村貴志氏(コンチェルト ヴィヴァーチェ 名古屋 代表)が1年半前に声をかけて
この会を実現させたそうだ。
当初は、この日がアメリカの同時多発テロが発生してから10年の節目に当たることから、
世界平和・全世界の地雷撲滅等をうたったチャリティーコンサートの予定だった。
しかし、今年の3月11日に発生した東日本大震災からちょうど半年に当たることから、
こちらに対しても収益の一部を寄付をするという形になっていた。

さて、開場は14時30分なのでその5分くらい前に現地に到着する。
すると、すでに長蛇の列となっていた。
レクイエムは合唱がメインだと思うから2階席の中央付近を狙っていたのだが・・・好みの席に座れるか微妙な状況だった。
が、何とか2階席中央付近の最後列に座ることができた。
観客はかなり多く、私の見た範囲では1階と2階はほぼ満席だった。
上の階もそれなりに混んでいただろう。

さて、演奏が始まる。
ん・・・ペースがとても速い。
私が普段好んで聴いているのはベーム&ウィーンフィルのレクイエムで、
これは通常よりかなりゆっくりしたペースで演奏される。
それが体に染みついているので
1曲目の入祭唱を聴いた瞬間に倍くらいのスピードで演奏しているように感じた。
念のために全曲演奏の時間を計ってみたら、
ベームのレクイエムより5分くらい早く終わっていた。
これは個人的にはちょっとがっかり。
ただ、演奏する側はこれくらいのペースの方が粗が出なくていいのかな。
合唱団も声を長く伸ばす必要がないから楽だし。
そういう配慮なのかも知れない。

いつも定期演奏会を聴きに行っている楽団が今回のオケ担当。
私の知人もいるな。
今回は結構いい仕上がりなのではないかと思ったが、
楽団の人数と比較して合唱団の人数が多いから、
ストリングスの音量が合唱の声に負けていたのが少々残念。
弦バスは2本でもよく聞こえていたから、
バイオリンやビオラは音の高さが人の声と近いくてまぎれてしまったのだろうか。
ソリスト(ソプラノ:吉田恭子、アルト:三輪陽子、テノール:塚田裕之、バス:稲垣俊也)はプロだからちゃんといい声を響かせていた。
個人的には、アルトのパートは損だなあと思う。
ソリストにしても、
他のパートは自分だけが目立って歌える部分があるのに
アルトの声は全く目立たない。
まあ仕方のないことだが。

休憩をはさんでもう1曲、S.ドブロゴスのレクイエム。
こちらはごく最近の2001年4月に作曲された現代の曲で、
イメージとしては映画音楽のような感じだ。
でも、これはこれでとてもいい。
ソリストはソプラノの吉田さんのみ。
こういうレクイエムもあるんだといい曲を聴かせてもらった。
あと、これはどうでもいいことだけれど、
1階最前列に座っている人で寝ている人がいた。
それも、コンサートマスターの斜め前。
楽団員から丸見えで、ドブロゴスのレクイエムの際はソリストが目の前で歌っていたはず。
気分がよくなる曲だから眠くなるのも分からないではないが、
目の前で寝ちゃまずいよね~。