2011年12月3日土曜日

「狂言でござる」を観てきた

名古屋市博物館で開催中の「狂言でござる」を観てきた。
これは、名古屋で結成された狂言共同社が所有する能装束や面などを多数展示する
初めての企画展だ。
狂言の装束等がこれほど名古屋で受け継がれていることはあまり知られておらず、
某能楽師によると(東京や京都にも質・量ともに負けていない)そうだ。
奇跡的に空襲の被害を受けなかったことも大きいという。

名古屋市博物館のHPの記述によると、
「名古屋は東京や京都と並び、国内でも有数の狂言が盛んな地域です。
そのはじまりは、江戸時代までさかのぼります。
尾張藩では初代藩主である徳川義直の代から能楽の充実がはかられます。
大蔵流(おおくらりゅう)・鷺流(さぎりゅう)という二つの大きな狂言の流派がある中で、
群小諸派の一人であった山脇元宜(もとよし)が尾張藩に召し抱えられ、
名古屋の狂言の礎が築かれました。
山脇元宜が樹立した流派は、宗家(そうけ)の山脇という名にちなんで、
山脇流と呼ばれていました。
尾張藩の庇護(ひご)のもと江戸時代を通じて、山脇流は流儀の充実をはかり、
主要な流派の地位を得て、明治以降は和泉流という名称が定着します。
山脇流の狂言師は時には尾張藩から装束などを拝領することもあり、
逆に面を献上することもあったと伝えられます。
拝領品を含む所蔵品は、明治維新や戦災といった苦難の時を越えて名古屋で伝えられています。
明治維新を迎えると、和泉流宗家(そうけ)の東京への移住などによって名古屋の狂言は存続の危機におちいります。
そのような中で、明治24年(1891)に和泉流門下の弟子であった旧家や商家の主人たちが、
名古屋の狂言を絶やさないようにと「狂言共同社」を結成しました。
弁護士で第一期市会議員も勤めた角淵宣(つのぶちせん)、仏具商の井上菊次郎、酒造業の河村鍵三郎、
旗屋の伊勢門水(いせもんすい)などなど。
このうち伊勢門水は多くの狂言画も遺した名古屋を代表する風流人でもあります。
彼らは専業の狂言師ではありませんでしたが、芸の水準は非常に高いものがあり、
芸の伝承にはげむとともに宗家が手放した装束・面・台本などを買い戻して共同で管理しました。
結社的に集まった人々が物心両面から宗家伝来の狂言を伝える姿は、
他地域にはみられない名古屋独特のあり方といえます。」
とある。

私も能や狂言には興味があるし、
能楽師のところへ入門して能管を稽古しているということもあって
待望の企画展だった。
最近はどんな展覧会に行っても図録は買わないけれど、今回は購入。
名古屋の能・狂言について詳しく書かれた書籍はそれほど多いわけではないから
この図録の記述も貴重な文献だ。

能・狂言は今は東京と関西(京都・大阪)だけが非常に盛んで、
それ以外の地域では細々という感じがしている(私がそう思っているだけなのか?)。
特に名古屋はかつては「芸どころ」と言われた割には能楽・狂言のファンはそれほど多いとは言えない。
学生能も下火になってきているし。
ファンの平均年齢も上がる一方だし・・・。
この企画展で少しでも興味を持つ人が増えてくれればと思う。

2011年11月27日日曜日

元上司との永遠の別れ

私の元上司が亡くなった。
63歳という若さだ。
ガンだった。
私は今まで8人の上司の下で働いてきたが、
その中でも最もお世話になり、
人生の上で大きな影響を受けた方だった。
仕事の仕方とかスキルとかいう意味ではなくて、
志とか生きざまとか、そう言った部分でだ。
この人がいなければ今の私は無いと言えるほどの人物との別れがこれほど早く訪れるとは・・・。
いつかはこの日が来るとは思っていたが・・・非常に悲しいことだ。

この人は、偶然同じ大学出身だった。
私が入社当時、社内で同じ大学出身の人は2名しかおらず、
私が3人目だったらしい。
しかし、私は結構アウトローだったのでOB訪問は一切せず、
OBがいるかどうかも調べないまま就職活動していたのでその上司の存在を知らなかった。
内定をいただいた各社の中からその会社を選び、
内定式へ行ったときのこと、
その人(当時は本社の人事課長だった)から呼び出された。
「おい、お前ウチの会社に大学のOBがいること知ってるか?」
と聞かれた。
その頃には2名いることは知っていたので
「お二人いらっしゃると聞いています」と回答したところ、
「俺だー!よろしくな!」と肩を組まれた。
それが最初の出会い。

この人は「声がでかい、腹がでかい、態度がでかい」と三拍子揃った人で、
酒が飲めない体質なのにこの男気あふれる業界で代理店営業で出世した有名人。
入社2年目に私の上司へと転勤してきた。
支店の代理店営業と本社人事部の間で転勤を繰り返し、
今度は支店の管理部門の課長(副支店長兼任)として転勤となったのだ。
そこで、この人の奥深さを知る。
営業本部出身の人なので、管理本部出身の人とはいろんな思考パターンが違う。
そしてフットワークも。

ホントかウソか分からない武勇伝のような話も多い。
その中の一つ、
中卒で院卒の大人と張り合ったという話。
この人は子どもの頃からかなり強気で自信家だったそうだ。
で、中卒でも大人に負けないと思いこみ、
高校へは進学せずに今の三菱化学の前進の会社(三菱化成?)に入社。
そこで院卒の同期と張り合っていたらしい。
しかし、報告書の誤字の多さを指摘されて自分の至らなさを自覚し、
翌年に高校入学~大学進学で今の会社へ入ったとのこと(確かに他の同期より1年年上だった)。

あるとき、私の転勤話がそこはかとなく漂ってきた。
転勤先は本社経理部。
本社(東京)へ行くのは嫌だし(経理部に転勤したら祭はできない)、
この年齢で経理部に転勤すると次は海外の子会社に転勤という可能性が大きくなる。
それはもっと嫌だなあとうだうだしていたところ、
この上司が上申書を書けと言う。
で、書いたものを提出したところ「話にならん!」と一蹴された。
その後、上司が「黙ってこれに判を押せ!」と言って書類を出した。
それは本来は私が書くべき上申書で、
私の生い立ちや地元の風習など知るはずもないことが結構正確に書かれており
その文書の中身を読んでビックリした。
これが本社へ送られ、写しが経理部長の引き継ぎファイルへ保存されることとなった。
後日、会計監査の折りなどに経理部長から
「これ、ちゃんと持ってるからな」と見せられたことも。
私が書いたものじゃないので冷や汗が出た。

私は入社以来、この会社の業界は自分には合わないとずっと感じていた。
男気が強すぎるドスの利いた業界で、
取引先や協力業者にも当然そういったメンバーが揃っていたからだ。
だから将来を考えて転職を計画していたところ、
この上司に感づかれた。
もっと身近にいる同僚の誰もが気付かなかったのに、だ。
ある日、「明日の夜、予定をあけておけ」と指示があった。
ある店の座敷に呼ばれたのだ。
そこで、「お前の様子がおかしいから
何か変なことを考えているんじゃないかと思って呼んだ」と言われた。
その時は実は転職先の二次試験も合格していて
後は内定承諾書を出すか断るかをするだけになっていた。
何という見る目の鋭さなんだろうとただただ驚くしかなかった。
このとき、二次試験に合格した段階でも転職するかどうか迷っていたのだが、
この上司の存在はその迷う大きな理由でもあった(転職先の面接官の感じの悪さもネックになっていた)。
迷いに迷った挙句、
転職を止めてこの会社にとどまることにした。
ただ、やっぱりこの業界は肌に合わないという思いが強くなり
数年後に違うところへ転職したから、
最初のチャンスに転職していたらもっといい人生があったのかも、とときどき思う。
転職をしたときはその上司はすでに本社へ栄転していたから
電話で報告をした。
上司は、引き留めて悪いことをした、という趣旨の話をした。
仕事の中身は自分により合っていると思うが、転職先の雇用条件の方が悪かったからだ。

その後は合うこともあまりなく、
年賀状のやりとりと同期から様子を知らせてもらう程度だった
それが、2年ほど前にガンが発見された。
余命数カ月と宣告されていたが、
保健が効かない治療をしたところ一時的に回復、
去年の11月には少し調子がよいとのことで仕事にも復帰していた(その時に、
一緒にご飯を食べた)。
それから1年後にこの日が来ようとは。
この人に恥じることのない人生にしたいと思う。