2011年10月3日月曜日

板東英二が中日の監督にならないかなぁ

元野球選手としてよりタレントとして有名だと思われる板東英二
現在71歳の彼が高校3年生のときに樹立した
甲子園1大会当たりの奪三振記録が未だに破られていないことは
我々の世代より若手にはあまり知られていない。
だから本人はテレビ等でかなり自慢げに話す。
中日ドラゴンズの落合監督が半ばクビとしてシーズン終了とともに監督を辞める報道がなされた前後に、
板東英二が中日ドラゴンズの監督をやりたがっているという噂が流れた。
しかし、板東は中日の選手ではあったがコーチやフロントは経験していない。
監督になった後に球団経営陣とも意見が合わずに対立しそうだし。
これがネックになって中日生え抜き選手とは言っても監督は無理だろう(「燃えよドラゴンズ」を最初に歌ったのは板東だが、これだけじゃあダメだよなぁ)。
ただ、自分の実績をあれだけ自慢するからには相当な記録を持っているのだろうと思って
少し調べてみた。

板東の野球人生で一番有名なのは、
夏の甲子園大会で延長18回引き分け再試合となった試合だろう。
実は、高校野球で延長18回でも勝敗がつかない場合に引き分け再試合という規定の適用第1号がこの試合で、
この規定ができるきっかけを作ったのも板東英二だったことが判明した。

板東が高校3年生の春季四国大会(昭和33年)、
徳島商業高校のエースとして出場した板東は、
準決勝と決勝の2試合が延長戦になったために合計41イニングも投げた(通常の1試合は9イニング)。
この試合は地方大会ではあるが全国的に報道され、
成長期の高校生が2日で4.5試合分も投げるのは非常に問題であると高野連が問題視した。
当時はプロもアマも先発ピッチャーが完投するのが当たり前で、
板東も全試合に先発完投していた(相手投手も先発完投)。
そこで生まれた規定が、
延長18回で勝負がつかないときは翌日再試合、だ(現在の規定は「延長15回」に短縮されている)。
そして、その年の夏の甲子園大会準々決勝の魚津高校(富山)戦において
またもや延長戦になって18回を終わっても勝負がつかずに引き分け再試合となったのだ。

この試合のスコアを見て驚くべきことが分かった。
板東はこの試合で合計25個の三振を奪っているが、
1~9回までより10~18回の方が奪三振数が多いのだ。
ピッチャーは投球回数が増えるほど疲労のために球のスピードもキレも無くなってくる。
当然バッターには打ちやすい球が増えるのだが、
板東の場合は試合後半になっても疲労によるパフォーマンスの低下が少なかったようだ。
しかも、この試合は第4試合で途中からナイターとなった。
板東は昔も今も人に注目されて実力を出すタイプだから、
ナイターになって余計に力が湧いてきたものと思われる。

板東は翌日の再試合(9奪三振)、準決勝(14奪三振)と勝利したが、
実質7試合目の決勝では疲労困憊のために
全く球が走らず0対7で負けた(3奪三振)。
準決勝までがわずか3失点だったことから考えると、
さすがの板東も相当消耗していたのだろう。

今のようにビデオでの投球分析が無い時代の記録で、
今よりピッチャー有利だったという見方もある。
しかし、トレーナーも酸素による疲労回復術などもなく、
真夏なのにエアコンもない。
準々決勝4試合が1日で消化される時代の記録だ。
新幹線も無いから、甲子園までの道のりはかなり大変だっただろう。
戦後10年少々で世の中全体がまだ貧しかった時代の記録だ。
栄養状態が今より格段に劣っていたのにこれだけのパフォーマンスができたのは
素晴らしい素質と
ハードな練習に耐えられた頑強な体と心があったからだと思う。

板東が在籍していた当時の徳商野球部は練習が厳しいことで有名で、
台風来襲で学校が休みになっても練習をやったとか、
毎日夜11時まで練習だったとか
今では考えられないほどしごかれていたらしい。
その上、
試合の前にはウォーミングアップとして300球も投げ込んでから登板していたというから
どこにそんなスタミナがあったのかと恐ろしくなるくらいだ。
今のような体調管理や調整法もないスパルタ至上主義の恐ろしい話だ。

板東が偉そうに自慢話で言うから聞く方もそのような聞き方しかしないが、
よくよく調べてみたら凄い記録だったのでここに書くことにした。
甲子園を沸かせた大投手は数多い。
江川・桑田・松坂・斎藤(ハンカチ王子)・・・
誰もが無し得なかった記録だ。
一応その年の板東の甲子園での記録一覧を↓
2回戦・・・秋田商(秋田)17奪三振・完封
3回戦・・・八女(福岡)15奪三振・1失点
準々決勝・・魚津(富山)25奪三振・0対0 延長18回引分け再試合
再試合・・・魚津(富山)9奪三振・1失点
準決勝・・・作新学院(栃木)14奪三振・1失点
決勝・・・柳井(山口)3奪三振・失点7

合計83奪三振。

ちなみに、本当かどうかは分からないが
中学時代は61勝無敗だったとか(「野球の島に四商ありて」(結踏 一朗著)の記述による)。


あと、板東は高校卒業後に中日ドラゴンズに入団しているが、
板東に触手を伸ばした巨人軍の取締役が板東の態度に腹を立てて入団交渉を一歩的に打ち切ったために中日に入ることとなったと「巨人軍 陰のベストナイン」(上前淳一郎著)に記述がある。