2017年12月5日火曜日

宮宿(名古屋市熱田区)にある裁断橋と姥堂 

先日の試験の後に散策した伝馬町の街にあった史跡「裁断橋」と「姥堂」。
裁断橋には悲しい物語が・・・
豊臣秀吉が行った小田原征伐(北条征伐)に出征した18歳の堀尾金助は小田原で病死。
母親が息子を見送りに来た場所が裁断橋で、息子の供養のために裁断橋を架け替えたという。
その33年後にも養子の堀尾類右衛門が架け替えたとされ、この際に「息子の供養のためにこの書き付けを見る人は念仏を唱えてほしい」との母親の願いが擬宝珠に刻まれたとされる。
この銘文は日本女性三名文のひとつにかぞえられている。

ちなみに、裁断橋が架けられていた精進川は大正年間に流路の付け替えが行われたので元々の場所は埋め立てられている。
太平洋戦争時の熱田空襲でこの辺りは丸焼けだったが、奇跡的に橋の擬宝珠は焼け残った。

今この場所についている擬宝珠は複製品で、ホンモノは名古屋市博物館に常設展示されている。
姥堂は時宗のお寺で、かつては精進川に掛かる旧東海道の裁断橋西南角の畔にあって、川を三途の川に見立てて奪衣婆を本尊としたので姥堂と呼ばれるようになったらしい。
姥堂も熱田空襲で丸焼けになり、戦後再建。今の建物は1993年の再建(鉄筋コンクリート)。裁断橋もその一角に小さいながら再現されている。境内には都々逸発祥の地の石碑もある。


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