2011年12月18日日曜日

加齢による体力の低下を実感

ランニングを趣味として早30年近く(中学の部活動から数えて)。
途中、10年以上のブランクはあるから実質15~6年くらいか。
若い頃はただ漠然と思っていた体の衰えについて、
最近具体的に感じることが増えてきた。
それについて少し書こうと思う。
年齢を重ねるごとにパフォーマンスが低下する。
これは若い頃から分かっていたことだが、
ではどういう原因でどうなるのかという具体的なところまではよく分からなかった。
歳を取るからパフォーマンスが低下する・・・
個人差はあると思うが、
私が今感じているポイントは下記の5つだ。

①疲労や怪我の回復が遅くなる
②怪我をしやすくなる
③練習の効果が出にくく、かつ練習効果がすぐ抜けてしまう
④体の柔軟性の低下
⑤イメージ通りに体が動かなくなる


①疲れが抜けにくくなったし、怪我してもなかなか回復しない(と思う)ようになった。
これは徐々にこうなっていったのであって、
ある年齢で急にこうなったわけではない。
だから、ある年齢になって「そう言えば」と気付く感じだ。
日常生活においても疲れが抜けにくくなっているから
現役時代のようなハードな練習にはもはや耐えられないだろう。

②怪我をしやすい。
これは④や⑤とも関連する。
柔軟性が低下しているから今までは上手く回避できた怪我が
回避できなくなっていたり、
関節の可動範囲が狭くなっていたり、
軟骨が減少していたりという原因もあるように思う(幸い、私は軟骨の減少はあまりない)。
思ったような動きができないから
昔のイメージで無理して怪我をしやすいという部分もあると思う。
若い頃は成長期なのでどちらかと言うと骨や関節系の怪我が多かったが、
今は筋肉系の怪我が多いように思う。

③練習の効果が出にくい。
そして、蓄積した練習効果もちょっと練習しないとすぐ落ちる。
若い頃は休んだ分をすぐ取り戻せたが(と言ってもその当時でさえ1日休むと1週間分戻る、と言われていたが)、
最近は若い頃のようにはいかなくなった。
ただ、若い頃にはあまり完全ではなかった調整力(コンディショニング能力)をマスターできているので、今はそれで何とか乗り切っている。

④私は元々体が硬いが、最近はそれに輪をかけて硬くなっている。
関節だけでなく筋肉も。
体が硬いことで得することは全くないので
最近通っているスポーツ医・科学研究所のトレーナーの指示通りにストレッチ・エクササイズを行っている。
しかし、中々柔らかくなってこない。

⑤自分で思ったような動きができない。
これは、昔は跳びこえられた柵を飛び越えることができない、
昔走っていたスピードで走れない、
というようなことだけではない。
ジョックしていても知らないうちに硬い動きになっていたり、
イメージしたフォームで走ることができなくなっていたり、というようなことだ。
これは若い頃からあったことで、人から指摘されて気付くことも多いが、
歳をとってくると指摘されてもなかなか直せない。

プロのスポーツ選手でも老化によるパフォーマンスの低下と戦う。
この低下を最小限に抑えるために、
日常生活のすべてを見直していると聞く。
私はプロではないけれど、
パフォーマンスの低下はできるだけ抑えたい。
今のところ通常のトレーニング以外にはストレッチを行っているだけだが、
食生活も見直さなければと思う。

最近はあまり利用していないが
あいち健康の森のトレーニングルームを活用するのもいい。
それは、ここを利用するには「簡易健康診断」というものを受けねばならないからだ。
費用は確か400円で、これが結構いい。
内容は日常の食生活についての問診と体力測定(踏み台昇降運動・腹筋・前屈)。
診断の結果は簡易ではあるけれど、
運動と食生活についての現状とそれに対処するための方針などが示される。
体力測定もあるので、
ジムでどの程度負荷をかけてトレーニングすればよいかの方向も示される。
これを活用しない手はない。
私は少し前に簡易健康診断の有効期限が切れて健康の森のジムが使えなくなっているから
丁度いい機会だ(簡易健康診断は1年ごとに受診しなければならない規定になっている)。
私ももう若くないから、体について今まで以上に考えていかねばと思う。

2011年12月12日月曜日

お伊勢さんマラソンに出場(2011年)

お伊勢さんマラソンに出場した。
昨年に続いて2度目だ。
今年は夏の終わりに腰の左側を痛め、
その影響かどうかはわからないが右足の付け根やら左足の膝やら背中やらが少々痛い。
一応医者には大丈夫だと言われて
指示されたエクササイズやストレッチなどのメニューをこなしてはいるものの、
痛みがあるために気になってそれほど走れない(練習時間も余り取れないし)。
ということで、
昨年より更に走り込み不足での出場となった。

この大会は私が普段出場している試合と比較するとレベルがそれほど高くなく、
コースはフラットで走りやすいため気に入っている大会だ。
それに、いろんな企業や店のブースが多数出て、サンプリング品がたくさん貰える。
参加賞も盛りだくさんだし、飲食物の売店も出る。
競技場は内宮に近いから、帰りにおはらい町などにも立ち寄ることが可能だし。
大会に出場しない人も楽しめる工夫があってとてもよいと思う。
が、今年から中日三重ロードレースと共催になった影響で出場者が増え、
昨年までとは違って走りにくい大会になってしまったのが残念だ。

私は走り込み不足なので走るための足がまだできていない。
当然スタミナも無いからいつも5kmの部に出場している。
去年は走りやすくてよかったので今年も・・・と考えていたところ、
なんと5kmの部には中学生が大挙して出場することが判明(それもスタート地点に行ってから分かった)。
私はなぜかシード選手に選ばれていた(申告タイム19分)ので前の方からスタートできるはずだったのだが、
スタート前に待機しているときに後ろにいたシードではない中学生が次々と私の前に入り込み、
結局シードでありながら中学生らの後ろからスタートすることとなった。
スタート前に役員が「押したり横入りしたりしないように」と注意したが
奴らは全く聞いていない。
走っている最中に横から押すし、
ちょろちょろとコースを変えるから足を引っ掛けていくし。
競技場を出るまでに2回も足を引っ掛けられて転びそうになった。
人数が多かったからキロ表示の看板も見えにくかったのも残念。
来年からは中学生とそれ以外で出発時間を変えて欲しいものだ。
ということで、
今年はがっかり感がやや強かったがそれなりに楽しめた。
練習していないのに20分16秒。
月30キロ未満しか走っていなくてもこれくらいは走れる、ということか。
練習していない証拠なのか腿の筋肉痛がスゴイ。
普通はランナーが5kmのレースに出て筋肉痛になることなんてあり得ないから
恥ずかしくて大っぴらには言えないことだ。
そして、今回は右かかとのマメがつぶれて血だらけになっていた。
靴を脱いだらビックリ。
踵が真っ赤だった。
靴にも染みている。
私は元々マメができやすいがなんてことだ!
帰ったら速効洗わなきゃ、という状態だった。

来年は12月第1日曜日に開催だとのこと。
どうして毎年開催時期が変わるのか分からないが、
来年もぜひ出場したいと思う。
来年こそは19分台だ。

2011年12月3日土曜日

「狂言でござる」を観てきた

名古屋市博物館で開催中の「狂言でござる」を観てきた。
これは、名古屋で結成された狂言共同社が所有する能装束や面などを多数展示する
初めての企画展だ。
狂言の装束等がこれほど名古屋で受け継がれていることはあまり知られておらず、
某能楽師によると(東京や京都にも質・量ともに負けていない)そうだ。
奇跡的に空襲の被害を受けなかったことも大きいという。

名古屋市博物館のHPの記述によると、
「名古屋は東京や京都と並び、国内でも有数の狂言が盛んな地域です。
そのはじまりは、江戸時代までさかのぼります。
尾張藩では初代藩主である徳川義直の代から能楽の充実がはかられます。
大蔵流(おおくらりゅう)・鷺流(さぎりゅう)という二つの大きな狂言の流派がある中で、
群小諸派の一人であった山脇元宜(もとよし)が尾張藩に召し抱えられ、
名古屋の狂言の礎が築かれました。
山脇元宜が樹立した流派は、宗家(そうけ)の山脇という名にちなんで、
山脇流と呼ばれていました。
尾張藩の庇護(ひご)のもと江戸時代を通じて、山脇流は流儀の充実をはかり、
主要な流派の地位を得て、明治以降は和泉流という名称が定着します。
山脇流の狂言師は時には尾張藩から装束などを拝領することもあり、
逆に面を献上することもあったと伝えられます。
拝領品を含む所蔵品は、明治維新や戦災といった苦難の時を越えて名古屋で伝えられています。
明治維新を迎えると、和泉流宗家(そうけ)の東京への移住などによって名古屋の狂言は存続の危機におちいります。
そのような中で、明治24年(1891)に和泉流門下の弟子であった旧家や商家の主人たちが、
名古屋の狂言を絶やさないようにと「狂言共同社」を結成しました。
弁護士で第一期市会議員も勤めた角淵宣(つのぶちせん)、仏具商の井上菊次郎、酒造業の河村鍵三郎、
旗屋の伊勢門水(いせもんすい)などなど。
このうち伊勢門水は多くの狂言画も遺した名古屋を代表する風流人でもあります。
彼らは専業の狂言師ではありませんでしたが、芸の水準は非常に高いものがあり、
芸の伝承にはげむとともに宗家が手放した装束・面・台本などを買い戻して共同で管理しました。
結社的に集まった人々が物心両面から宗家伝来の狂言を伝える姿は、
他地域にはみられない名古屋独特のあり方といえます。」
とある。

私も能や狂言には興味があるし、
能楽師のところへ入門して能管を稽古しているということもあって
待望の企画展だった。
最近はどんな展覧会に行っても図録は買わないけれど、今回は購入。
名古屋の能・狂言について詳しく書かれた書籍はそれほど多いわけではないから
この図録の記述も貴重な文献だ。

能・狂言は今は東京と関西(京都・大阪)だけが非常に盛んで、
それ以外の地域では細々という感じがしている(私がそう思っているだけなのか?)。
特に名古屋はかつては「芸どころ」と言われた割には能楽・狂言のファンはそれほど多いとは言えない。
学生能も下火になってきているし。
ファンの平均年齢も上がる一方だし・・・。
この企画展で少しでも興味を持つ人が増えてくれればと思う。

2011年11月27日日曜日

元上司との永遠の別れ

私の元上司が亡くなった。
63歳という若さだ。
ガンだった。
私は今まで8人の上司の下で働いてきたが、
その中でも最もお世話になり、
人生の上で大きな影響を受けた方だった。
仕事の仕方とかスキルとかいう意味ではなくて、
志とか生きざまとか、そう言った部分でだ。
この人がいなければ今の私は無いと言えるほどの人物との別れがこれほど早く訪れるとは・・・。
いつかはこの日が来るとは思っていたが・・・非常に悲しいことだ。

この人は、偶然同じ大学出身だった。
私が入社当時、社内で同じ大学出身の人は2名しかおらず、
私が3人目だったらしい。
しかし、私は結構アウトローだったのでOB訪問は一切せず、
OBがいるかどうかも調べないまま就職活動していたのでその上司の存在を知らなかった。
内定をいただいた各社の中からその会社を選び、
内定式へ行ったときのこと、
その人(当時は本社の人事課長だった)から呼び出された。
「おい、お前ウチの会社に大学のOBがいること知ってるか?」
と聞かれた。
その頃には2名いることは知っていたので
「お二人いらっしゃると聞いています」と回答したところ、
「俺だー!よろしくな!」と肩を組まれた。
それが最初の出会い。

この人は「声がでかい、腹がでかい、態度がでかい」と三拍子揃った人で、
酒が飲めない体質なのにこの男気あふれる業界で代理店営業で出世した有名人。
入社2年目に私の上司へと転勤してきた。
支店の代理店営業と本社人事部の間で転勤を繰り返し、
今度は支店の管理部門の課長(副支店長兼任)として転勤となったのだ。
そこで、この人の奥深さを知る。
営業本部出身の人なので、管理本部出身の人とはいろんな思考パターンが違う。
そしてフットワークも。

ホントかウソか分からない武勇伝のような話も多い。
その中の一つ、
中卒で院卒の大人と張り合ったという話。
この人は子どもの頃からかなり強気で自信家だったそうだ。
で、中卒でも大人に負けないと思いこみ、
高校へは進学せずに今の三菱化学の前進の会社(三菱化成?)に入社。
そこで院卒の同期と張り合っていたらしい。
しかし、報告書の誤字の多さを指摘されて自分の至らなさを自覚し、
翌年に高校入学~大学進学で今の会社へ入ったとのこと(確かに他の同期より1年年上だった)。

あるとき、私の転勤話がそこはかとなく漂ってきた。
転勤先は本社経理部。
本社(東京)へ行くのは嫌だし(経理部に転勤したら祭はできない)、
この年齢で経理部に転勤すると次は海外の子会社に転勤という可能性が大きくなる。
それはもっと嫌だなあとうだうだしていたところ、
この上司が上申書を書けと言う。
で、書いたものを提出したところ「話にならん!」と一蹴された。
その後、上司が「黙ってこれに判を押せ!」と言って書類を出した。
それは本来は私が書くべき上申書で、
私の生い立ちや地元の風習など知るはずもないことが結構正確に書かれており
その文書の中身を読んでビックリした。
これが本社へ送られ、写しが経理部長の引き継ぎファイルへ保存されることとなった。
後日、会計監査の折りなどに経理部長から
「これ、ちゃんと持ってるからな」と見せられたことも。
私が書いたものじゃないので冷や汗が出た。

私は入社以来、この会社の業界は自分には合わないとずっと感じていた。
男気が強すぎるドスの利いた業界で、
取引先や協力業者にも当然そういったメンバーが揃っていたからだ。
だから将来を考えて転職を計画していたところ、
この上司に感づかれた。
もっと身近にいる同僚の誰もが気付かなかったのに、だ。
ある日、「明日の夜、予定をあけておけ」と指示があった。
ある店の座敷に呼ばれたのだ。
そこで、「お前の様子がおかしいから
何か変なことを考えているんじゃないかと思って呼んだ」と言われた。
その時は実は転職先の二次試験も合格していて
後は内定承諾書を出すか断るかをするだけになっていた。
何という見る目の鋭さなんだろうとただただ驚くしかなかった。
このとき、二次試験に合格した段階でも転職するかどうか迷っていたのだが、
この上司の存在はその迷う大きな理由でもあった(転職先の面接官の感じの悪さもネックになっていた)。
迷いに迷った挙句、
転職を止めてこの会社にとどまることにした。
ただ、やっぱりこの業界は肌に合わないという思いが強くなり
数年後に違うところへ転職したから、
最初のチャンスに転職していたらもっといい人生があったのかも、とときどき思う。
転職をしたときはその上司はすでに本社へ栄転していたから
電話で報告をした。
上司は、引き留めて悪いことをした、という趣旨の話をした。
仕事の中身は自分により合っていると思うが、転職先の雇用条件の方が悪かったからだ。

その後は合うこともあまりなく、
年賀状のやりとりと同期から様子を知らせてもらう程度だった
それが、2年ほど前にガンが発見された。
余命数カ月と宣告されていたが、
保健が効かない治療をしたところ一時的に回復、
去年の11月には少し調子がよいとのことで仕事にも復帰していた(その時に、
一緒にご飯を食べた)。
それから1年後にこの日が来ようとは。
この人に恥じることのない人生にしたいと思う。

2011年11月23日水曜日

豊橋へGO! ~赤岩寺 & 豊橋美術博物館~

豊橋市の東部にある赤岩寺の秘仏がこの時期だけ公開されるので拝観してきた。
このお寺は○○に開基という古い真言宗のお寺だ。
周辺には東海自然歩道も通っており
背後に小高い丘が連なっている自然豊かな場所にある。

立派な山門を通り過ぎ、中門をはいると正面に本堂が見える。
その他堂宇がいくつかあるが、
肝心の秘仏は向かって左手の一番奥まった場所にある。
鉄筋コンクリート造りの宝物庫というような建物に収められていた。

そこで番をしていた檀家の方によると、
かつては宝物庫は無くて御堂の中に安置されていたそうだ。
そこでは、護摩や線香を焚くので
その煤などで黒くなっているとのことだった。
ゆったり拝観したあと、周辺を散策。
東海自然歩道には結構惹かれるものがあった。
少しだけ歩いてみたが、いいトレッキングコースだと思う。
いつか歩いてみたいところだ。

そして、せっかく豊橋まで来たから
吉田城のところにある豊橋美術博物館で開催している渡辺小華展を観に行った。
渡辺小華は、田原藩家老で「鷹見泉石像」を描いたことでも知られる渡辺崋山の次男だ。
兄が夭折したために渡辺家を継いだという人物で、
若い頃から椿椿山などに弟子入りして絵の修行をしたという。
その企画展だ。
昔は日本画より洋画の方が好きだったのだが、
20歳ごろから日本画も結構好きになり、
今では日本画の方が好きだと言えるくらいだ。
ただ、素人なので細かい技法とか歴史とかはよくわかっていない。
好き・嫌いで判断するレベルだ。
でもいい絵を観てよい気分になることができればいいと思っている。

夕方に少しだけ豊橋の友人と会って話をした。
この友人は私とは違った分野に結構詳しくて
興味深い話が多い。
今回も面白い話を聞くことができた。

しかし・・・同じ県内とは言っても豊橋は遠い。
ウチから片道1時間半ちかく掛かる。
蒲郡を通り抜けるのに時間がかかる。
高速を使うとかなり遠回りだし。
でも、豊橋にはまだまだ行ってみたいところがあるので
機会を見つけて訪問したい。

2011年11月14日月曜日

愛知県図書館 探検ツアーに参加

愛知県図書館探検ツアーに行ってきた。
これは一般市民向け(中学生以上)に開催されたもので、
数年前から年に何日か開催されているものだ。
今までずっと行きたいと思っていたのだが、
当日先着順に受け付けするというのが面倒であきらめていた。
しかし、今回はメールでも受け付けるとあったので応募し、
めでたく当選したのだ(先着順に受け付けだった)。

集合時間は13時半。
県図書のAVホールで全体説明があり、
その後職員に引率されて普段は入ることのできない館内のバックヤードを順番に見学していく。
今回の参加者は8名。
平均年齢は多分私の年齢と同じくらいかやや上か。

見学は障害者閲覧室から。
普段は障害者以外は利用できないという部屋だ。
ここで、点字資料やデイジー資料の説明を受ける。
障害者向けの資料は一般向けに販売されているものだけではとても追いつかないので
この図書館でも作成しているとか。

その後、1階のカウンターから順に。
書庫の資料を請求すると、その申請書がどのように流れていくかのしくみを見せてもらい、
地下の書庫へ下りる。
書庫は地下1階と2階だが、そこは4層に分かれていた。
書庫の書架は主に電動の集密書庫が置かれていて、
その動かし方も見せてもらう。
最新式のものは書架の動作が液晶表示をされる。

説明を聞いてびっくりしたことがある。
それは、県図書は基本的に除籍(廃棄)をしない図書館だということだ。
一旦買った本・雑誌は全部取っておく。
壊れて修理できなくなったもの以外は全部保管されているそうだ。
そんなことしていたら置く場所が無くなってしまうと思ったが、
今のところ収容スペースには37万冊も余裕がある計算だ。
地下の書庫をよく見ると、フロアに空きスペースが多数あり、
まだまだ大丈夫みたいだ。
将来はそこにも集密書架を入れるのだろう。
他の公共図書館ではこうはいかないので、
定期的に除籍し、
いらない本を利用者に頒布するイベントを行っていると思う。

で、その後貴重書庫へ。
県図書の貴重書は和本が多く、あと古い地図も結構ある。
貴重書は大変大事なものなので、
耐火金庫みたいな分厚い扉が付いた部屋に厳重に保管されていた。
とびらの奥には金網のついた引き戸があり、
それを開けて中へ入る。
劣化防止とカビの発生を防ぐため、
室内は24時間空調で管理されている(気温18度・湿度50%)。
床・壁・天井・書架は全部木でできていた(多分杉の木だと思う)。
貴重書にはいろんなものがあるが、
中でも江戸時代の大きな地図は体育館で広げないと見えないようなサイズのものもあるそうで、
そういったものは滅多に開かれることはない(請求しても利用許可が下りないだろう)。
大きくないサイズのものでも劣化の激しいものも閲覧許可は下りないとか(県図書で一番古い図書もかなりボロボロだから閲覧不可:本を開くとそこから分解しそう)。
ただ、閲覧できないものは電子化されており、
インターネット経由で電子アーカイブからパソコンで閲覧可能だ。

他の図書館の資料を取り寄せして利用者に提供するサービス(ILL)は
今ではあらゆる図書館が実施しているが、
県内の図書館間の転送便を一手に引き受けているのが県図書とは知らなかった。
それは、県内各図書館との間に定期便があるかららしい。
例えば、
半田市立図書館の利用者が豊橋市中央図書館の資料を取り寄せする場合、
その本は豊橋から県図書へ行き、
そこから半田へ来るという流れだ。
また、岐阜・三重・富山・石川の各県立図書館とも転送便のやり取りがあるそうだ。
で、例えば名張の図書館から半田の図書館の資料の希望があったときは、
半田から県図書へ行き、そこから三重県立図書館へ行ってから名張へ転送されるという経路になるらしい。
本の大変な流れを知って驚いた。

新刊図書を購入するセクションも見学した。
県図書は県内の公共図書館の機能を補完する位置づけの図書館であるため、
どこの市町村立図書館に普通に購入されるような本はどちらかというと購入せず、
少し学術的な図書や市町村立図書館が購入しなさそうな本を購入していく傾向もあるらしい。
限られた予算を有効に使って行くために現在の所蔵資料との兼ね合いも考えて研究しているとのこと。

最後に図書の修理スペースへ。
本の修理は基本的には保存の利く材料を使う。
糊は生麩か製本用の糊。
セロテープは絶対使わない。
上を接続するときは和紙を使う。
本を破った人が勝手にセロテープで補修していることがときどきあるが、
セロテープは年月が経つと接着部分が変色して紙にこびり付いてセロファンと分離するので
そうなる前に全部はがして修理し直す。
コピー機を使う人が増えてから修理本の量が大幅に増えたとか(ページをグッと開くので
本がバラバラになる)。
取れたページがある本は本自体をばらして各ページを縫い込みして直すそうだ。
修理本の棚に目をやると、
何と私が卒論を書くときに参考資料とした本が並んでいた!
それは結局は自分で購入したけど最初はここで借りた。
だから約20年ぶりの対面。
早く修理されるといいなあと思った。

2011年11月6日日曜日

映画「WAYA!(わや)」を観た


名古屋・円頓寺商店街を舞台にした映画「WAYA!(わや)」を観てきた。
円頓寺は元々縁もゆかりも無いが、今ではこの町のファンの一人だ。
笛の稽古へ行くときにいつも通る道すじにあり、
その昔ながらの商店街がとても気に入ったからだ。
一般的には名古屋の昔ながらの商店街は大須だというイメージがあるが、
大須は今や昔懐かしい店は少なくなり、
若い子向けの服屋と食べ物屋ばかりという状態。
だから本当の昭和のレトロな雰囲気を残しているのは円頓寺だ。
それに、名古屋駅の近くにこんな下町があるというのも驚きだ。
バブル期にうまく地上げから逃れてきたのだろう。

今回の映画はこの商店街を中心に話が展開していく。
確か今年の1月にエキストラ募集してたから
その頃撮影したのだと思う。
エンドロールに大量の名前が出てきたから
かなりのエキストラの応募があったことがわかった。
どのカットも知っている景色ばかりで、
円頓寺を知っている人はそういった部分も楽しめる。
それに、ここは普段は入れないところなのでは?
というところでもロケが行われているのを発見したり。
しかし、アーケードの屋根をあんなふうに歩けるとは知らなかったな~。

もちろんストーリーも感動の物語だから
円頓寺を全く知らない人でも楽しめる。
それに、これを機会に円頓寺を知る人が増え、
ロケ地巡りなどに来る人も多くなるだろうなあと思う。
古い商店街で閉まっている店も結構あるが、
場所はイイし可能性を秘めていると思う。
この映画をきっかけに何か良い変化があれば、と思う。

一つ残念(でもないか?)だったのは、
ルー大柴が関西弁をしゃべるのに違和感があったこと。
役柄が関西出身で京都の大学に行っていたという設定だから仕方ないが、
てっきりルー語でも使うのではないかと勝手に思い込んでいたから
ちょっと意表を突かれた感じだ。
名古屋での上映は伏見ミリオン座で。
11月11日までの上映は確定しているが、延びる可能性あり。
詳しくはミリオン座のHPでチェック!