2013年3月3日日曜日

千秋家の墓地(名古屋市緑区)



15年振りくらいに名古屋市緑区野並(相生山?)にある千秋家の墓地へ行ってきた。
墓標を確認するためだ。
そうしたら、立入禁止の札があって墓地へは入れないようになっていた。
千秋家とは、明治時代に入るまでの間に熱田神宮の大宮司を世襲した由緒正しい家柄。
元々熱田神宮の大宮司はこの地の豪族の尾張氏(尾張国造)が代々世襲していたが、平安時代末期に熱田大宮司の尾張員職(かずもと)の娘と、尾張国の目代・藤原季兼(藤原南家)との間に生まれた藤原季範(すえのり)が熱田神宮大宮司職を継いだ。
彼の孫である憲朝が号を千秋と称したことから、それ以後子孫は千秋氏を名乗り、明治初期まで熱田大宮司職を世襲した(明治時代になって大宮司という職名は伊勢神宮に限定されたため、現在の熱田神宮のトップの職名は宮司)。
なお、季範の娘の由良御前(NHK大河ドラマ「平清盛」で田中麗奈の役)は源義朝と結婚して源頼朝を生んだ。
名古屋との意外な接点だ。

かつては千秋家墓地として名古屋市教育委員会が建てた案内看板もあったのだが、それも既に取り外されていた。
いろんな人がブログ等で取り上げて、しかも市やその他の人たちが野並の散策ルートとして紹介しているから、不特定多数の人が墓地に入って好ましくないことが発生したのだろう。
そもそも、墓地だから本来は物見遊山で行ってはいけないし。
私は調査目的だけれど、お参りじゃないからダメなんだよな・・・。ここの墓地は千秋家の私有地みたいだし。
ということで中へは入れず、外からの確認だけに留めた。
でも、調査の目的は一応は達成できた。
 しかし、熱田神宮大宮司を世襲した家柄の墓地がどうしてここにあるのか?
それは、かつてこの地を所領にした時代があったからだと思われる。
千秋家が源氏とのつながりがあることは既に書いたが、貴族の藤原家につらなる千秋家は源氏と強く結びついたのちに武家化していったらしい。
室町時代には代々京都に在住して幕府に仕え、将軍家の奉公衆となっていた。
また、安土桃山時代には尾張の所領が危うくなったことから尾張に戻って織田家に仕え、すでに神官とは名ばかりの国人的な武将であったという。
ただ、信長から「大宮司職に専念せよ」との指示があってから武家であることを辞めて大宮司職に専念した模様だ。

ちなみに、これだけ由緒正しい家柄の割に墓石が新しいのは、すべて明治時代以降に作ったからだという。
江戸時代になってここに墓を建てることを幕府から禁じられたために、明治になるまでは松を1本植えて塚を作っていた。
そして、明治になってから墓石を作るようになったようだ。
だから、この中で一番古い墓標(本家筋)は、私が調べたいと思っていた千秋季雄(幕末の大宮司)のモノだと思われる。