2008年8月10日日曜日

見晴台遺跡 市民見学会(現場説明会)







 今年で第48次発掘調査を迎えた見晴台遺跡の市民見学会が開催された。この遺跡は名古屋市南区見晴町にあり、弥生時代中期から後期にかけてのムラの遺跡である。ただ、縄文時代や中世・近世の遺物も出土していることから、かなり長期間にわたって人が住んでいた地域であるということができる。また、第二次大戦中は日本軍の高射砲陣地になっていたため、戦争関連の遺物や高射砲の台座などもある。2年ほど前にはアメリカの爆撃機であるB29の垂直尾翼の一部が発掘されたために新聞に記事が掲載された(垂直尾翼の大部分は発掘区域外に埋まっていたために、現在は埋め戻されている)。この遺跡は毎年夏に発掘調査が行われ、8月の第2日曜日の午後に市民見学会と称する現場説明会が開催される。
 市民見学会では今年の発掘成果や現状の説明を行う。今年はA区とB区に分かれて発掘を行ったが、B区では芳しい成果が無かったためにA区のみで説明を行った。私は中央部分の説明を担当した。
 中央部分の南半分からは住居址が全く見つからず、ピット(柱の穴)のようなものが多数発見されただけ。北半分からは多数の住居址(竪穴住居)が発見されたので、この中の5号住居址と8号住居址と命名した竪穴住居の説明を行った。
 5号住居は昨年度までに掘り下げ始められ、今年度も継続して調査を行っている住居址である。他の住居址が弥生時代後期と考えられているのに対して、この5号住居址は平安時代の住居址だ。平安時代に竪穴住居?と思う方もいると思うが、ムラに住む一般庶民はこの時代はまだ竪穴住居だったのだ。庶民が竪穴住居ではなくなるのは鎌倉時代に入ってからとされている。さて、この住居址の内部にはカマドが残されていた。土砂に埋まっていたためにカマドは潰れていたが、カマドの構造物の一部として使われた土師器も残っていた。住居内の土坑からは灰釉陶器の椀や皿(この陶器がここから土したから、この住居址が平安時代のものだと推測できる)、瓦、土師器甕などが出土した。平安時代の緑区(南区の隣)では灰釉陶器を生産する窯が多数あり、都へも運んでいたことから、窯の近所である見晴台でもこの器が使われていたと推測できる。また、石や焼土なども住居址内から出土している。焼土は赤茶けた色の土で、他の部分とは明らかに違うので見分けるのは容易だ。
 8号住居址は昨年度の調査で完掘しており、9号住居址に切られている弥生時代後期のものと推測される。
 土を掘って土器などの物が出土したときはすぐわかると思うが、住居の跡や柱の穴の跡はどうやったら分かるのか、という問い合わせがある。これは経験を積まないと見分けられない場合もあるが、土の色の違いで判断する。
 住居址や柱の穴(ピット)は地面を掘って、それが埋まったところだ。だから、埋まった土とその周りの掘らなかった部分とは土の色が違うのだ。だから、発掘するとき、土の色が違っているところを用心深くチェックするのが重要なポイントとなる。また、この地域では通称地山(正式には熱田層)と呼ばれる地層が発掘調査の重要なポイントとなっている。この地層はこの地域が陸になる前に海の中で堆積した地層である。だから、この地層が出たらそれ以上掘っても遺跡は発見されないということになる。地山はオレンジ色の固い粘り気のある土で、こちらも見分けがつきやすい。
 発掘調査は地道な作業だ。しかも、今は夏なので非常に暑くて辛い。まじめに掘りすぎるとめまいがすることもある。でも、発掘が好きだからやっていられる。個人的には何か遺物が出土するより、遺構(当時の生活の様子が地面に残っている跡)を探す方に魅力を感じる。竪穴住居址・ピット・土坑・・・。それらはかつて弥生人が生活していた痕跡であり、時を越えてその同じ場所に立つことができるということが不思議な感じだ。そういうところにロマンを感じなければこんな辛いことは誰もやらないだろう(さらにずっと発掘していると、そんなロマンなんて感じることは無くなるらしいが)。
 私は学者ではないので発掘調査に参加できるということは非常に貴重なことだ。いつまで参加できるか分からないがずっと続けて行きたい。

2 件のコメント:

sara さんのコメント...

相変わらずやっていますね。
いつも読んでるけど、
ディープな内容でコメント書けないよ~(汗

F氏 さんのコメント...

いつもありがとう。
そんなにディープかな?
他の方々も読むだけってパターンが多いので、コメントなしでも大丈夫ですよ。